いま、会いにゆきます

観た上で語る、と約束していた節もあり、『デビルマン』を観ようと錦糸町へ。
時間を確認せずに行ってみたら、朝イチの回のみで上映している模様。
ガッカリするためにわざわざ観に行ったのだが、こんな理由でガッカリしたくなかった。
他所に移動して観賞しようかとも思ったが、錦糸町からごく近い亀戸サンストリートというショッピングモールが頻繁に登場するらしく、なんとか錦糸町で観たいのだ。
なので、帰りに「一人デビルマンごっこ」をする計画は、次に回す。

だからといってわざわざ来たのだと、期せずして『いま、会いにゆきます』を観賞することに。
どっちにしても観るつもりだった作品だが、家から歩いて10分の映画館でも上映されているため、後回しにする計画だった。
やっぱり映画を見る優先順位は、打ち切られそうな作品から、でしょ。
観たいと思いつつビデオを待ってしまうなんてのはよくあること。観られるうちに観てしまおうということで。
そもそもの前提として、「泣かせ映画」は生理的にダメなのだ。泣ける、そんな基準自体に不信感を持っているとでもいうか。
こんなストーリーの世界に浸って涙を流し放題の心が清らかすぎるワタクシ、そんなアピールを飲み会で披露するための下準備のお供として考えてしまう。
我ながら、歪んでる。

しかし、同作品は予告編が心に引っかかりっぱなしで。竹内結子中村獅童という組み合わせの時点で、なぜか泣ける。しかし泣くためじゃない、観たいから観ようと思っていた。

映画を観る時は原則として一人。作品世界に没入するタイプではないが、感想を頭の中で反芻するのが常である。
カップルだらけの映画館、今日も一人で真ん中付近の席へ。

内容に触れない範囲で、感想・結果および、その後の自分がとった行動について書く。

泣いてきた。なんかもう、泣いてきた。不幸に泣くんじゃなく、グッと来て泣いた。熱い。
途中から横隔膜にヘンな泣き癖がついて、ヒクヒクしながら観てきた。
ハッキリいって、ベタはベタなのだ。設定自体も、ちょっとした無理がある感は見える。
そして「泣き」を意識したマーケティングとしての類似でなく、設定としての類似作がいくらか浮かぶ。提示するとシナリオの根幹が見えてしまうから、書きはしないが。
クライマックスが近づき、コテコテに泣かせにくる。そして展開として出来すぎた部分だって目に付く。
しかし、いいんだ。そんなのは重要じゃない。映画としてよかった。
こりゃ、正しくファンタジーだ。
だからこそ、中村獅童演ずる秋穂巧の不器用さと心が、強く心に残る。
それよりも心に残るのは、大学生時代の巧の、外見的違和感のなさだったりするが。ハマりすぎで笑える。
竹内結子の秋穂澪、人間的に出来すぎだ。嫌悪感が出てもおかしくないくらいに。だけど、見れば見るほどに惹かれる。
こちらの大学生時代も違和感ないな、と思ったところで、年齢的には大学生でまったく問題ないと気づく。違和感がないのは29歳時の方だったのか。
そして、なんたって子どもだ。秋穂佑司役の武井証くん、したたかさ溢れてる。
この三人にあれだけ親子振りを見せられちゃ、もう、止まらないよ。

監督の土井裕泰、脚本の岡田惠和、脇にも味のあるキャスティングと、ドップリとはまり込んでしまった。

上映終了後、大きく伸びをした。
両の掌を組んで天に向けて伸ばした腕の間で、首をほぐす動作に絡めて、片目ずつを上腕で拭った。もう乾いてた。
青臭いけど爽快、ちょっと悲しいけどとても嬉しい映画だった。
こんな、泣かせモードに浸りきっている心の清らかなnaochangです。清らか過ぎます。柴田理恵なんて目じゃないくらいに清らかです。

帰り際に笑い声が聞こえると、自分の顔には涙の通り道がキッチリ残っているんじゃないかと、過剰な自意識に駆られた。
この映画館のトイレ、入場口より奥だよ。もう、出口を通っちゃったよ。
わからないからきっと大丈夫だ、と心中で念じるもやっぱり気になり、丸井のトイレに駆け込んで胸をなでおろすのであった。

映画って、面白いじゃないの。
調子に乗って、『ニュー・シネマ・パラダイス/3時間完全オリジナル版』でも行こうかな。3時間は長いが。

あ、それより『デビルマン』だよ!