私はメモらない

ある一定の月日が経つたび、思いついたように手帳にメモをつけ始める。
人が手帳にスケジュールをまとめて自分を律しているのを見るたび、予定は頭の中で大雑把にチェックして気ままに動く自分は、なんと世間の常識に届いていないことかと感じてしまうのである。
固有名称が関わる場合、桁数の多い意味のない数字が絡む場合、よっぽどの準備が必要とされる場合を除き、頭の中に情報と予定を取り込んで覚えている。それが自分にとっての当たり前であり、自然なことなのだから。
安請け合いなどの避けられる理由によって予定がバッティングする場合が、まったくないとは言わない。しかし手帳をつけなかったがために決定的な失敗をしたとまで思うことはない。
後になって予定が重なると判明する場合など、仔細を逐一手帳に書きとめる人とて同様であろう。ミスをする時はミスをする。それは結果的な現象であり、その確率はそう変わるものではない。
むしろその場で予定を組みなおすのに慣れている分だけ、臨機応変な対処力を身につける方法としては優れているんじゃないか。脳みその記憶で処理できない分は、そもそもからして自分の容量を越えた情報なんだから。
しかし、やっぱり不安になる時はあるのだ。切り詰めたギリギリの生活を送る必要性が薄いため、忙しさが増してくると不安が生まれてくる。結果として乗り越えれば問題はないのだが、普段がいいかげんな生活を送っているがため、ふと忙しくなったときに大チョンボをやるんじゃないかと心配してしまう。
そしてもう一つ、そのうち自分の処理能力が落ちてきたら、そのバックアップ機能をつくることに慣れていない思考では、急激になにもできなくなるんじゃなかろうかと。
私の自慢は記憶力がいいことです、なんて自慢を出来るほどの能力とは思わないが、それなりに頼っている部分であるのが確かなため、どうしても失われるのが恐ろしい。
そんな突発的な不安がもたらす感情に襲われるたび、B6版のノートを買うのだ。どの種類とのこだわりがあるわけでもないので、思いがけず入った文具店やコンビニで、ふと目に付いたノートを。
そしてなんかしらの予定を書いてみたり、ふと思いついたネタの構成をしてみたりと、ノートを上手く使える男になりたがってみる。
しかしズボラなため長くは続かず、お手軽な手段である、全部を覚えてしまって忘れなかったことだけをやる、という方法に戻ってきてしまう。
なんたって、メモを忘れる。それは頭の中であったり、物理的であったりする。
まず、メモをとることを忘れてしまう。かなり後から思い出して、覚えている限りをメモにする意味は、どれほどのものなんだろう。布団に入る前に日記をつけるのと同じなら、ポケットやカバンに潜ませる意味はまったくない。
メモをとることがイレギュラーであるため、メモを控えてあることを忘れてしまう。書いたところで見返さないのなら、頭で覚えるためのテクニックとして手を動かしている人と同じだ。頭で覚えることが先になっている自分にとっては、まったく意味がない。
カバンに入れたまま忘れてしまう。服装を気にせず使うニューライナーの青バッテンがついたブリーフケース、なんとも高校生っぽいエナメル地のワンショルダー肩掛け、Xボックスのナップザックなど、いくつかのカバンを併用している。どれかを使ったままに手帳は入りっぱなしとなり、そのまま住み着いてしまいがちだ。
そういったことが続く結果、メモをとる人間になるのだという、こころざし自体を忘れる。
あとは定期的に、最初から繰り返す。多くの場合は書きかけのノートを引き継ぐのではなく、まったく新しいノートの何も書かれていないページから、まっさらな気持ちでやり直し。メモをとる習慣の定着に挫折したこともまた、まっさらに忘れているので。
ページごとにはしっかり書き込まれていながら、3割程度が空白のノートは、そうして量産されていくのである。
ここ最近は、部屋の容量に対して増えすぎている荷物の処理を主にすえて、自室の掃除を行いつづけている。すると、思い出したように何冊かの手帳と逢うことになる。
一冊は背綴じの部分が青みがかった緑のテープでされた、いかにもノートらしい罫線ノート。一冊は同部分がリングになっている、ちょっと書いたことを破きながら使うには都合のよさそうな罫線ノート。一冊は気合の入り方がちょっと大きかったときに買ったであろう、ビニル素材で中が見える表紙カバーになっている、プリクラを貼るページやら地下鉄乗換え路線図やらが載っているようなシステム手帳形式のバインダーノート。最後の一冊は、今もカバンに入れっぱなしでちょっとしたメモ書きをしている、無印良品で買ったとの説明だけで誰もその実物を寸分たがわず想像出来そうな、表紙も中身も茶色がかったノート。
そのまま捨てるのも忍びないので中を見てみる。メモをとらずに生活している人間がわざわざとったメモなんだから、さぞかし意味のある内容を書いてあるのだろう。
そう思ってみてみれば、大したことは書いていなかった。
あるノートには、大学に入ってちょっとたったくらいのメモなのか、試験の範囲がやたらに細かく書いてあった。過去の自分に語りかけるなら、どうせメモをしたところでまともな予習はしないと教えてあげたい。せいぜい他人様がまとめてくださったノートを活用するレベル止まりなのだと、真実を伝えたてあげたい。
あるノートには、「パワプロ」のペナントモードにおいて、自チームで起用したことがある架空の選手名を、ただただ列挙してあった。見たところでそれ自体にはまったく意味のない、苗字の羅列。本格的に意味がない。おバカな中学生がカバンのストラップや机上に、ハロプロのメンバーをひたすらに記述するのと変わらない。下手すれば、目に付かない場所であるという部分を考えないで比べれば、自分の箱庭を復唱するだけの自分こそ、本当に意味を逸したおバカじゃないのか。
一般におけるメモとはどういうことなんだ。これでは主観を自分だけの客観にさらして、自分があまりにも恥ずかしい存在だったと気づかせるだけじゃないか。

ダメだ。こうして書けば書くほど、思い出さなくていいことを思い出してしまう。書くこと自体が思い出すことなのだ。どんどん積極的に忘れる力を鍛えるためにも、この項の記述をやめられるように、力を振り絞ろう。